「葉むら」の暖簾にふれて

第3回
2024.01.29

和食の代表といえば、「蕎麦」「鰻」「寿司」「天ぷら」のいずれかを挙げる方が多いだろうと思いますが、皆さんはどうでしょうか?
蕎麦は、寿司よりもずっと歴史が長く元禄年間(1688-1704)に登場したそうです。寿司や鰻、天ぷらは江戸中期以降で、屋台に登場したのは江戸後期とも言われています。
では、「江戸前」と聞いたら何を思い浮かべるでしょうか?
寿司か天ぷらを思い浮かべる方が圧倒的に多いと思います。が「江戸前」とは本来江戸湾でとれた鰻を指す言葉だったようです。

のっけから話が逸れていってしまいましたが、話題を天ぷらに戻しましょう。江戸後期に、屋台で売られていた天ぷらの様子ですが、幕末の足音近い天保12-13年頃(1841-42年)に歌川広重が描いた『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図』(たかなわにじゅうろくやまちゆうきょうのず)には、天ぷらの屋台が描かれています。

画像元:東都名所高輪廿六夜待遊興之図

江戸時代、天ぷらは寿司や鰻と同じく元々は屋台で提供される下賤な食べ物だったようです。価格は一串約130円と寿司1貫と同じくらいの手頃さで、多くの人々に親しまれていたそうです。天ぷらの主な具材は穴子や貝柱などの魚介類で、串に刺して揚げ、天つゆにつけてその場で食べるスタイルが一般的だったようです。絵師鍬形蕙斎(くわがたけいさい)(1764-1824)『近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば ) 』にはその様子が描かれています。

『職人盡繪詞』 屋台店(四文屋・鰑(するめ)屋·天麩羅屋)

やがて天ぷらは、屋台で売られる庶民の身近な食べ物から、高級な天ぷらへと昇華されていきます。明治から大正にかけて高級天ぷら店が現れます。いわゆるお座敷天ぷらと呼ばれるもので、浅草「中清」は1870年(明治3年)に、銀座「天國」は1885年(明治18年)に創業された老舗です。

意外にも、現在天ぷらの具材として当たり前のように使われていますが、エビが揚げられるようになったのは江戸時代後期に入ってからで、ナスやレンコンといった野菜が天ぷらのメニューに追加されるのは、東京においては、なんと関東大震災以降のことだそうです。関東大震災で職を失った職人たちが、日本各地に移り住み江戸天ぷらが全国に広まったというのは大変興味深い逸話です。元々16世紀に長崎に伝えられ始まったとされる天ぷらが、17世紀に上方天ぷらとなり、18世紀には江戸天ぷらとなったわけですから。

さらにその江戸天ぷらは立ち食い屋台からお座敷天ぷらへと場所を変えました。単に場所を変えただけでなく、天ぷら職人としての技術が洗練され、より高級な料理へと変貌を遂げていったのですから、真の天ぷら職人の持つ技術はまさに匠の技です。葉むらの天ぷらを食してみると、私の頭ではサイエンスするまでには至ることはできませんが、間違いなく「絶品の美味しさである」ことだけは理解できます。よろしければ皆様も、高級天ぷらをサイエンスしにぜひ「葉むら」へ足を運んでみてください。(次回につづく‥‥‥)

(文:立)

注釈:文中で取り扱っているデータ等については、Bing AI(Chat-GPT4搭載)との対話及びネット情報、文献等からの筆者独自の分析によるものです。
参考文献:『天ぷらのサイエンス』(誠文堂新光社, 2022)